Last Update 2023.10.09
長崎県東彼杵郡波佐見町
波佐見町は長崎県のほぼ中央に位置しており、海が無い内陸の町です。
【中尾山MAP】筒山太一窯さんで頂いた地図
中尾山は波佐見町中尾郷にあり、たくさんの窯元がある陶郷です。
波佐見焼の始まりは1590年代頃、下稗木場窯で焼かれた陶器の碗皿や甕などの日用品であったとされています。
その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れ帰った朝鮮人陶工たちが関わったとされる村木の畑ノ原、古皿屋(ふるさらや)、
山似田(やまにた)の窯で、1610~1620年代頃、波佐見で初めての磁器焼成に成功しました。
磁器の原料となる陶石が発見され、17世紀初め頃より波佐見で本格的な磁器窯が築かれました。青磁の皿や白磁の貼花を飾った器など高度な技法が駆使された三股窯の製品は、主に贈答用として使われました。
その後、17世紀中頃に東南アジアを中心に輸出されるようになり、波佐見焼の窯の数も職人の数も一気に増えていきます。
17世紀後半には中国が磁器の貿易を強化したことに伴い波佐見焼の輸出量は減少。代わりに国内向けの日用食器の生産が中心になり、現在へと繋がっています。
安くて丈夫で使いやすい器はたちまち大人気となり、江戸庶民の食文化に大きな変革をもたらしました。大量消費地である大阪で「くらわんか碗・くらわんか皿」と呼ばれたことからこの名が一般的になりました。
明治以降、藩からの支援がなくなり、陶磁器の生産は個人や会社組織へと変わります。
成形には鋳込みや機械ロクロが使われ、絵付けには銅板転写やカッパ刷り、窯の燃料も石炭や重油へと大きく変わっていきます。
海外に醤油や酒を輸出するための器「コンプラ瓶」は、江戸末期~大正時代まで波佐見で生産されていました。
第二次世界大戦で大きなダメージを受けながらも廃れることなく続き、昭和30年代~50年代の高度成長期には流通改革などもあり飛躍的な発展を遂げます。
絵柄や形状などにこだわりのない波佐見焼は、人々の生活様式の変化や流行、時代の雰囲気などに合わせて自在にデザインを変化させ、人々の求めるモノが何なのかを常に模索してきたのです。
多様なデザインで人々の暮らしを彩る現代の波佐見焼。
使い心地の良さや料理が映えるという使い手の視点が重視され、形状も絵柄も自由にデザインされています。
モダンでスタイリッシュな波佐見焼のブランドも次々と登場しており、アーティストとのコラボレーションも多数あります。
これからがますます楽しみです。